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日本語のYouTubeの「独自性」の原因と将来性についての考察

皆さんYouTube見ているでしょうか。私もYouTubeを見ているのですが、日本語のYouTubeは非常に独自ですね…。

以前、取り沙汰されたフューチャーフォン、いわゆるガラケーと呼ばれるものですが、そのように日本語のYouTubeは独特な進化を遂げている、遂げざるを得ない理由を今回は考察してみたいと思います。

まず大前提として、なぜユーチューバーが「存在するのか」があります。それは動画再生数に応じた収益を得ることができる金銭面のメリットあることがまず根底にあります。つまり、「再生数=お金」です。

その大前提の上での考察となります。

まず挙げられる事は、日本語を使う人口が少ないということがあります。

日本人の人口が1億3000万人とありますが、この数字は単一の言語としては決して少ない数ではありませんが、自由主義圏で最も一般的に、多く使われている言語、それは英語ですが、英語を「母国語もしくは第一言語ではないが普通に使える」人までカウントした場合、十数億人が使用している、と言われます。

つまり、日本語のYouTubeとは、英語に比べるとたった10分の1のパイの中で、決められた広告費を奪いあっている、という状況になっています。

その結果として、日本語のYouTubeでは限られたパイの中で耳目を集めざるを得ない状況と言えるでしょう。
そのような中で、耳目を集めるための最も手っ取り早い方法としては、いわゆるTVのパクリとなるのは、火を見るまでもなく、明らかなことです。

テレビのパクリをするにしても、しかるべき予算があれば、まだそれなりに見えるものが作れるのかもしれませんが、予算がないにもかかわらず、TVのパクリをしようとする、それはヒサンの一言と表しても良いのかもしれません。

その結果として、「目立つが勝ち」と言わんばかりの、けばけばしいサムネイルのデザイン、お決まりのフリー素材の効果音(苦笑)、そしてまるでバラエティー番組かと見紛うような芸人気取りの出演者、といった動画構成に「ならざるを得ない」のではないか、と考えます。

いや、それ、本人は面白いと思ってやっているのかもしれませんが、見ていて疲れます…。

逆に英語のYouTubeを見てみると、非常にお金のかかった、様々なジャンルが共存し、非常にシンプルなデザインからアメリカのテレビ番組のような作りのものまで多種多様な動画があります。

英語の場合、視聴者が10倍存在するのですから、日本では存在し得ないようなジャンルであったとしても、パイの奪い合いをすることなく独自性があれば収益化が図れるのでしょう。

逆に、そのパイの少なさは日本語のYouTubeの独自性を「生み出さざるを得ない」状況であることは確かでしょう。

とはいえ、そのような日本語のYouTubeですが、日本の経済的成長が低下し、消費者の購買意欲も下がっている、そのような中で、今後も広告収益が維持されるのか、については甚だ疑問に思わざるえをえません。

今後、日本語のYouTubeの広告収入自体が非常に安いものとなり、いわゆるYouTuberたちが動画を作る経済的メリット自体が存在し得なくなる日、が近い将来に迫っているのではないか、とさえ思ってしまいます。




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